【真珠湾への道】五

第三節 トラウトマン工作
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講和については10月28日、大場鎮陥落時から外務省と陸軍参謀本部で進められていた。

広田弘毅外相の指示により外務次官堀内謙介がドイツ駐日大使ディルクセンに仲介を依頼し和平交渉、
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トラウトマン工作が進められた。

11月2日広田は第1条件をディルクセンに手渡した。

その内容は以下のようなものだった。


1、内蒙古に自治政府を置き、外蒙と同様の国際法上の地位を与える。

2、華北に非武装地帯を設け、北平と天津以南とする。華北全体の行政は南京政府があたり親日役人を任命する。

3、上海はこれまでより大規模の国際的警察の管理下にある非武装地帯を設置する。
4、教科書問題などで反日政策を修正する。

5、中ソ不可侵条約と矛盾しない形での反共協力。

6、日本製品にたいする関税引き下げ

7、中国における外国人の権利の尊重


蒋介石は11月5日第1条件を入手した。
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ところが蒋介石は敗北を自認せしていなかった。

また中国は国際連盟に提訴し、11月3日からブラッセルで九ヶ国条約会議が開催されこの問題が討議されていた。

蒋介石はアメリカが中国支持に回ることを期待し、交渉の先延ばしを行なった。

11月5日には日本軍が杭州湾に上陸し、挟撃された中国軍は敗走、

蒋介石は11月7日、総退却命令を下すこととなる。

しかも頼みにしていたブラッセル会議でアメリカは中国の言い分を認めなかった。

アメリカはイギリスから事変の概要について説明を受け、

今回は4年前の満州事変と異なり、中国側に非があると見ていた。

しかも第三次南京事件の際、アメリカ人が多数国民党軍の兵士に襲撃されており、

アメリカは蒋介石を快く思っていなかった。


28日から蒋介石は第1条件受諾の根回しを開始した。

12月2日蒋介石は幹部を招集し意見を求めた。

12月2日、蒋介石は第1条件を受け入れることを駐南京ドイツ大使トラウトマンに伝達した。

仲介に当ったドイツ外務省は12月7日日本側の回答を求めた。

だが第一条件を提示したときとは状況が変化し、

中国軍を全面壊走させ南京陥落もまじかに迫っていた。

これを見た広田外相は心を動かされた。

ディルクセン駐日大使から和平提案を受けた広田外相は、

「最近の偉大な軍事的成功により、1ヶ月前に起草された基礎の上で交渉が行えるかどうか疑問である。陸海軍の意見も得て検討したのち返答する。」と回答した。

ディルクセン駐日大使は過大な要求をして交渉を失敗させないよう広田外相に警告した。


閣内では海軍大将の末次信正内相が第一条件で講和を結ぶことに猛反対した。

これをみた広田は参謀本部を裏切り強硬条件派に寝返った。

また南京陥落の報をうけ近衛首相も再度強硬案を定義すべきだという意見になった。

そして12月21日の閣議で新条件を決定した。


第2条件

1、支那は容共抗日満政策を放棄し、日満両国の防共政策に協力する。

2、所要地域に非武装地帯をもうけ特殊の機構を設定する。

3、日満支三国間に緊密な経済協定を締結する。

4、支那は帝国にたいして所要の賠償をする。

以上の他口頭説明として細目を次のように付加した

5、支那は満州国を承認する。

6、支那は排日反満政策を放棄する。

7、北支・内蒙古に非武装地帯を設定する。

8、北支は支那主権の下において、日満支三国の共存共栄を実現するに適当な機構を設定しこれに広汎な権限を与え日満支経済合作の実をあげる。

9、内蒙古に防共自治政府を設定する。

10、支那は防共政策を確立し、日満両国の防共政策遂行に協力する。

11、日本軍の中支占拠地域に非武装地帯を設定して、特殊機構を設ける。また上海市には租界外に特殊政権をもうけ日支協力して治安維持と経済発展にあたる。

12、日満支三国は資源開発、関税、交易、航空、通信に関し協定を締結する。

13、支那は帝国にたいし所要の賠償をする。

付記
14、北支・内蒙古・中支の一定地域に必要な期間、日本軍の保障駐屯することを認める。
前諸項に関する日支間の協定成立後に停戦する


広田外相は回答期限を1月5日として、12月22日にこれをディルクセンに提出した。

12月26日、トラウトマンは行政院副院長孔祥煕と蒋介石夫人宋美齢に会い第2条件を手渡した。

この段階で蒋介石は各級の意見を集めた。

徹底抗戦の意見が多数を占めたが日本に拒絶回答する意欲もなかった。

だが蒋介石は第1条件からの日本がなぜ強硬な態度に変化したのか理解できなかった。

また第2条件は停戦を協定後とするなど停戦交渉を先とする先例を無視している。

日本側は賠償について戦費であるのか民間賠償であるのかすら照会に答えなかった。

ディルクセン大使もこれを見て蒋介石が要求を飲むと思えないと広田外相に警告した

蒋介石は当然これを無制限要求と見なした

第2条件の詳細を照会しようという意見が大勢だった。

蒋介石は第2条件のような不明確な内容では、協定にならず政治的立場を失うと考えた。

条件が変われば誰でも事情を聞きたくなる。

蒋介石は広田に第2条件に対して問いただした。

だが広田は反発し、蒋介石との交渉打ち切りを進言した。

閣議で交渉打ち切りが決定された。

これに反対したのは陸軍だった。

中国と長期戦になれば占領地域維持のため、陸軍の負担が増大する。

陸軍は中国全土占領のために65個師団、その後も同数を駐留さえねばならない算定していた。

当時の陸軍は17個師団であり、しかも師団定数を満たしていなかった。

末次内相は「もう一度宣戦布告を行って中国を徹底的に叩くべきだ。」と主張したが陸軍としては到底そのような余力はなかった。

参謀本部は大本営連絡会議の開催を要求し、1月15日開催された。

出席した多田参謀本部次長は
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「僅かの時日を争い、前途暗澹たる長期戦に移行するのはあまりに危険であり承服できない」と猛反発し、蒋介石の照会要請に応えるべきだと主張した。

会議は午前9時30分から午後7時30分に及んだ。

閣議で交渉打ち切りを決めた近衛は強硬で一切の妥協を拒んだ。

さらに海軍大臣の米内光政は「外相の判断を信じられないのなら内閣が総辞職するしかないと。」と発言した。

多田は「この国家の重大な秋になぜそのような軽率なことを言うかと反論したが

休憩時間にこのままでは内閣が総辞職しかねないと説得され多田参謀本部次長は海軍と文民政府の提案にやむなく同意した。

近衛は照会への回答をせず1月15日を期日として交渉打ち切りを決めた。

1月16日、日本は蒋介石に交渉を打ち切り以降交渉相手としないことを通告した。

参謀本部はこの期限の理由が帝国議会が1月20日から開催されるため、

近衛が大衆に演説をしたいためだと知って激怒した。

こうして「交渉相手としない」宣言を行ったことにより世界は停戦交渉を日本から打ち切ったとみなした。

中国軍は日本に対し国際法を無視した軍事攻撃を行った上に日本人居留民虐殺や上海無差別爆撃を実行しており、国際世論は日本に同情的だった。

ところが日本から交渉を打ち切ったことにより事態は一変した。

その後の軍事作戦はこれまでのものと異なり、

日本の侵略的行動と見なされ国際的非難を浴びることとなった。

翌年、イギリス大使カーが停戦仲介を買って出る。

カーは蒋介石が停戦を訴えていることを伝えたが近衛はこれすら拒絶した。

またトラウトマン工作の経緯を見れば海軍も文民政府とともに停戦を妨害したことがわかる。

戦後大陸での失敗を陸軍のみの責任として非難するむきがあるが誤りだとわかる。

文民政府と海軍によって奇跡的勝利で幕を下ろせたはずの日華事変は停戦も勝利もままならず泥沼の様相となったのである。

≪次の記事 6.有末軍務課長の策動≫


posted by 右野翼 滅罪 at 23:00 | Comment(6) | 【日記】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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