右の一日一言

世紀のシューティングアクションの名言より!


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【真珠湾への道】七

第二節 桐工作

ただ日華事変の泥沼から抜け出せず国際的に孤立しているという状態に変化はなかった。

またこの時、欧州情勢は激変していた。


9月1 日、ドイツ軍が突如ポーランドへの侵攻を開始。
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それの動きを見た英仏はドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が勃発したのである。

欧州戦争の帰趨は明白でなく、どのような結果となるか予断を許さない状況であった。

そこで欧州戦争に対しては不介入で列強との強調をはかり、

同時に列強を日華事変に介入させず二国解決を図る「不介入政策」が進められることとなった。

この方針に基づき日華事変解決のためにいくつかの政策が試みられた。

その中核をなしたのが汪兆銘工作である。
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これは蒋介石を軍事的に打倒することが困難であるなら

日本の手で新中国政府を樹立させこの政権との交渉によって停戦を結び、

日本軍は撤兵を開始するというものである。



だが政府の方針とは裏腹に参謀本部の汪兆銘への期待は薄く、

10月に着任した沢田茂参謀次長などは「支那政府として時局処理を担当する実力なきこと」(注 1)手記に残している。
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39年の大規模人事異動で着任した幕僚たちは汪兆銘率いる南京政府に大した期待を寄せていなかった。

トラウトマン工作以降、政府を信頼しなくなっていた参謀本部課員らは私的外交に乗り出す。

蒋介石の重慶政府との和平交渉を成立させ、最終的に汪兆銘の南京政府と合流させ対中和平を実現せんとしていた。

すでに39 年夏からは参謀本部第七課鈴木卓爾中佐が香港に派遣され、

「香港機関」が組織されていた。外務省の全権特使ではなく、

陸軍の軍人が私的な和平交渉を開始するというのは驚くべき事態である。


かくして1940 年(昭和 15年)初旬から香港のペニンシュラホテルを舞台に

国民党政府の要人宋子良との和平交渉「桐工作」が開始された。
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この工作を主導したのは沢田茂参謀次長だった。

6月の予備会談では蒋介石と板垣征四郎支那派遣軍総参謀長と汪兆銘の三者会談が浮上するまでに至った。

また同時に心理的圧迫を与え交渉のテーブルに着かせるため軍事作戦も平行して行われ、

宜昌作戦が開始された。

7月 22日になると直接会談の日取りや調整ついて覚書の覚書が交わされるまでになった。

陸軍首脳は満州国や駐兵問題は条件としないという重慶政府の主張に応じる意向まで固めていた。

≪次の記事 8.英侵攻作戦≫
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