桐工作が行われていた頃、欧州では予想だにしない事態が起きていた。
5月10 日にドイツ軍の西方電撃戦が開始されたのである。
オランダ・ベルギーが瞬く間に占領され、
27日には英仏軍が撃破されイギリス軍、ダンケルクから本国へと撤退を始めた。
14日にはドイツ軍がパリに入城、 22日にフランスは降伏した。

大国フランスの敗北は全世界に衝撃を与えた。
これまで事態を慎重に見ていたイタリアもダンケルクの敗走を見て、
6月10 日に英仏に宣戦布告した。

そしてフランス降伏の衝撃は日本にも大きな影響を与えた。
陸軍部内では 6月下旬には英本土上陸も行われるのではないかと予想され、
これまでの二国間解決ではなくドイツの勢いを頼みに一挙に事変を拡大しようという動きが陸軍部内で再び生まれることとなった。
40年7月から事態は急展開する。
参謀本部はイギリス本国がドイツに敗退するとを見越し、
参謀本部では部長級会議が開かれた。
武力による香港封鎖が提案され、政府も日本軍派遣を承認した。
7月14 日、沢田参謀次長が昭和天皇にこれを上奏すると「なぜ英国を圧迫するのか。」と問いただした。
沢田参謀次長は「今後一ヶ月または一ヵ月半以内には英国は世界的地位に大変動を来すること」(注2)が予想され、
その大変動に備えるためであると回答している。
陸軍省、参謀本部はすでに 6月下旬から香港、マレー、シンガポールに対する攻略計画に取り掛かっており7月3 日には陸軍案が作成された。
海軍に回され、 9日には海軍対案が示され、 15日には陸海軍関係課長会議で修正案が纏められる。
この間外務省は外交についてのみ陸海外三省協議で相談したのみで欧州情勢の激変から積極的急速に対英戦準備が推し進められていった。
その案は7 月27日には「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱」として大本営連絡会議で決定となる。
7月 16日には米内内閣が倒される。陸軍は対英戦に消極的な米内内閣組閣を妨害するため陸軍大臣を推挙せず、
結果組閣が不可能となり米内内閣は瓦解する。
その後成立したのは第二次近衛内閣であった。
参謀本部の情報部を始めとする軍事官僚達は対英戦を鼓舞し、着々と準備を進めていった。
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