【真珠湾への道】十

第三章松岡外交と海軍


1939年(昭和 14年)1 月5日、平沼騏一郎内閣が誕生した直後にドイツから
日独伊三国軍事同盟締結が提案された。
nitidokui.jpg

これは同盟国のうちいずれかが、他国から攻撃を加えられた場合の共同防衛について提案した軍事同盟であった。

ヒトラーは日本との同盟を締結することで、
hitler.jpg

ソ連を牽制し、極東ではイギリスに対し圧力をかけることができると考えていた。

有田外相らの外務省は、防共協定のような対ソ軍事同盟賛成であったが英国を仮想的とした軍事同盟には消極的だった。

一方、板垣征四郎陸相や東条英機次官ら陸軍は援蒋活動放棄のための圧力となることを期待し賛成の方針だった。

8月8日、板垣陸相は五相会議に、陸軍の総意として、軍事同盟締結を提案する。

米内光政海相、山本五十六次官、井上成美軍務局長らを始めとする海軍はこれに猛反対する。

海軍は同盟締結によりアメリカとの関係が悪化することを恐れていた。

仮にアメリカとの戦争になった場合、日本は米艦隊に抗しきれず貧弱な独伊艦隊が駆けつけたところで必負だと考えていた。

この点において海軍はドイツとは共同の軍事作戦もままならず、

無意味な同盟だと考えていた。


海軍はこの点に関しては陸軍と異なり徹底したリアリズムで分析をしていたと評すべきだろう。

7月 26日、アメリカは日米通商航海条約の廃棄を通告する。

これは日華事変に対する制裁であった。

これはアメリカの始めての対日制裁で各界に衝撃を与えた。

1939年(昭和 14年)8 月22日の独ソ不可侵条約が締結されると 25日には平沼内閣は交渉を打ち切り、

同盟締結は一時的に頓挫する。これにより日本は英独米との関係を悪化させたこととなり再び孤立を強めてしまう。


この間欧州情勢は変化し、

9月1 日にはドイツ軍、ポーランド侵攻開始し、

3日には英仏が対独宣戦布告を行っていた。

1940(昭和15 年)になるとドイツ軍は

4月にノルウェー・デンマークに侵攻。

6月末までにオランダ・フランスを占領下に置いた。


そして先述したようにドイツの快進撃は日本にも大きな影響を与え、

7月から対英作戦が検討され、 27日には「時局処理要綱」が策定された。

7月16 日には米内内閣が倒され、第二次近衛内閣が成立する。

そんな中、松岡洋右外相はアメリカの日米通商航海条約の廃棄を見て、

アメリカに対してはドイツと連携して強い姿勢で臨むべきだと考えており、

8月1 日オットー駐日大使と接触を試みる。

9月9 日には再びドイツが三国同盟交渉を打診してきた。

ドイツ特使スターマーが松岡外相私邸を訪問する。

ドイツはポーランド侵攻によって英仏が宣戦布告してくるとは予想していなかった。

ヒトラーは第一次世界大戦のように世界を敵とし、国民生活を逼迫させてまで戦争を行うことは避けねばならないと考えていた。

ヒトラーが特に恐れたのはアメリカの動向だった。 

 
英仏を敵に回した上、アメリカが英仏側に立って参戦すれば、

一次大戦同様の事態となり必負だと考えていた。

そこでヒトラーは日独伊三国軍事同盟を再び軌道に乗せ、

強固な防衛体制を形成することによってアメリカ参戦を牽制させようとしたのである。

9月 11日、スターマー特使は松岡外相の原案に対して修正案を提出する。

この修正案では、日独伊のうち一国が、現在の欧州戦争または日華事変に参入していない国によって攻撃された場合には、

政治的・経済的および軍事的手段によって相互に反撃するとされた。

これは具体的にはアメリカとソ連が欧州戦争や日華事変に介入した場合、

日独伊三国で対処することを定めたものである。


≪次の記事 11.真珠湾奇襲計画≫


posted by 右野翼 滅罪 at 23:00 | Comment(0) | 【日記】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。