【真珠湾への道】十四

第二節 日蘭交渉

1941年(昭和 16年)6 月11日にはオランダとの間に重大な出来事があった。

オランダ領東インドから資源を買い取ろうとする日蘭交渉を行っていた。

だが第 29回大本営政府連絡会議において蘭領東インドからの日本代表団の引き揚げが決定されたのである。

交渉不成立はオランダが英米の意向を受けて日本に資源を売却しなかったためだとする説がある。

そしてこれ以降米英支蘭の経済制裁、

俗に言う「 ABCD包囲網」によって日本は追い詰められたとするのが通説である。
abcd-houimou.jpg


日蘭交渉の実態はどのようなものだったのであろうか。

そもそも「 ABCD包囲網」という発想そのものが誤っている。

先述したようにアメリカやイギリスは蒋介石政権をファシスト政権だとして快く思っておらず

重慶との連携を開始するのは真珠湾攻撃すなわち 1941年12 月以降の話である。

 そして日蘭交渉決裂は英米の意向でオランダが決めたものではなく、

日本の意思により決定されたものだった。


1940年(昭和 15年)5 月以降、オランダ領東インドは本国がドイツの占領下に置かれたため、

現地での資源獲得が緊急の課題となっていた。なかでも戦略物資である石油確保は重要とされた。

また蘭印行政府は自国企業保護のため外国企業に対して投資、人員の受け入れを制限を加えるようになった。

これをもって日本企業が不当な圧力を受けたというむきがあるが、

制限を受けたのは日本企業だけではない、

また本国が軍事占領されたという危急を要する際にとった保護政策を責める事は難しいと思われる。


1940年(昭和 15年)7月になると日本では対英戦計画「時局処理要綱」が進められていたが、

前年の 7月には日米通商航海条約破棄が通告され、 40年一月には同条約が失効されることなった。

これまで日本は石油等の戦略物資をアメリカに依存してきたがトラウトマン工作以後、

対日政策は厳しいものとなっていた。まして対英作戦実行ともなれば戦略物資供給停止の恐れもあった。

そこで「時局処理要綱」では日本は代替供給先としてオランダ領東インドを確保するとされた。

日本としては、輸入割当大幅増を目的に蘭印行政府に交渉をもちかけたところ、来訪を歓迎する旨の回答を得た。

1940年(昭和 15年)7 月閣議において代表団長に小林一三選任された。

余談であるが小林は阪急グループ、宝塚の生みの親である。

 これに基づき9月、企画院、外務、商工の各役所から代表が特使として派遣され、

三井物産向井会長・協和鉱業本多常務らと、

ロイヤル・ダッチ・シェル及びスタンダード社との折衝が開始された。


だが交渉は難航した。

日本側が何度も渡り条件吊り上げを計り、蘭印側の不評を買った。

交渉の当初、年間50万トンの石油売却を希望していたが

40年5 月には 100万トン、代表団人選出決定後の8月に 200万トンを要求してきた。

そして代表団到着後の 9月交渉では315 万トンから 380万トンの要求を提示してきた。

300万トンとは1939 年の日本の年間消費量の半分近い数値である。

本国を失った蘭印政府の弱みにつけ込む様な条件吊り上げであり、

しかも 300万トンを要求した9月にはオランダの宿敵ドイツとの同盟締結と北部仏印進駐があり蘭印政府にしてみれば軍事的恫喝を加えられたようなものである。


それでも72 万余トンの石油確保に成功、東京での交渉分他をふくめて計 195万トンの買付が成立した。

だが日本はなお 315万トンから380 万トンの石油と他の物資の入手を強く要求した。


蘭印政府のホーフストラーティン通商局長は

「平時なら 300年の日本・オランダの友好関係に鑑み、いかようにでも譲歩する方法はあるが、食うか食われるかの戦時下においては日本側の要求を満足させることは不可能である」

と日本の要求を拒絶した。


これは当然のことでオランダ側には輸出量を決定する権利がある。

また当時どこの国での石油等の戦略物資は輸出量に一定の制限を設けていた。

しかも蘭印政府は本国政府を失い、今後如何なる事態が発生するか予断を許さない状況下にあり、

またドイツと同盟した日本が南進の動きを見せているのである。

10月に入り代表団は帰国し 1941年(昭和16 年)に入ると芳澤謙吉 (元外相) を団長に第2次代表団が派遣される。

11月12 日、蘭印側の最終回答量が提示された。

この結果 130万トンの石油買付け契約が成立し、

要求していた他の天然資源も以下の通り確保された。

       
最終要求量
最終回答量
受諾率

生ゴム    
20,000
15,000
75.0%

錫・錫鉱石  
3,000
3,000
100.0%

ニッケル   
180,000
150,000
83.3%
ヒマシ    
6,000
6,000
100.0%

規那皮    
600
600
100.0%

樹脂ダマルコパル
1,450
1,400
96.6%

カポック繊維 
1,000
1,200
120.0%

カポック種子 
5,500
6,000
109.1%

コプラ    
25,000
19,800
79.2%

籐      
1,000
1,200
120.0%

パーム油   
12,000
12,000
100.0%

タンニン材  
4,000
1,200
30.0%

ボーキサイト 
400,000
240,000
60.0%

マンガン鉱  
20,000
6,000
30.0%

キニーネ   
80
60
75.0%

黄麻(ジュート)
1,300
1,400
107.7%

合計     
680,930
464,860
68.3%
(注4)


これをみればオランダ側が要求にほぼ応じていることがわかる。



ところがそれに対して日本側は驚くべき反応を見せた。

「今日までの蘭印のやり方は不都合にして、又応諾量も不足故、調印すれば国民は不承知なるべく、佛印や泰等にも日本の弱くなった感想を与え好結果とならず、調印せざるを可とす」(注5)

として自ら交渉を打ち切ったのである。



そして 6月6 日、交渉は決裂するに至る。


そしてこの交渉は蘭印政府の運命を決定した。蘭印軍も敵対の可能性ありとされ、

真珠湾攻撃計画策定の際、英米と共に攻撃対象とされたのである。

≪次の記事 15.南進計画≫


posted by 右野翼 滅罪 at 23:00 | Comment(0) | 【日記】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【真珠湾への道】十一

第二節 真珠湾奇襲計画
daitoua-sensou.jpg

9月12日の四相会議で、松岡外相はスターマー案の受諾を提案される。

平沼内閣時代から一貫して異議を唱え続けて来た海軍だったが変化が現れた。

この時及川海相は態度は保留とし、

9月14日の大本営政府連絡会議では海軍はスターマー案に賛成し一転して三国同盟賛成に転じたのである。


先にも述べたが海軍はこれまでドイツ海軍は戦力とならず米艦隊に対抗できないと判断し、

アメリカを刺激する三国同盟に反対していた。

だが一人の海軍提督によって歴史上例のない作戦計画が産声を挙げた時、

海軍部内は一変した。この必勝の策ならば対米戦争に勝利できると考えたのだ。

帝国海軍は日本海海戦以来、長らく砲撃による艦隊決戦によって雌雄を決するべきだと考えていた。

他の海軍もこの例に漏れず、長射程の主砲を誇る戦艦での艦隊決戦を重視する「大艦巨砲主義」が各国海軍で重要視された。

明治40 年の帝国国防方針で海軍は米国を主な想定敵国とした。

その要旨は西太平洋上で来襲する米艦隊を艦隊決戦により撃滅するというものである。

これは明治 40年以来、長期にわたり海軍の伝統的な対米戦略思想となった。

戦艦ではなく航空機を活用すれば戦艦の主砲を上回るロングレンジ攻撃が可能となり、

かつ戦艦そのものも容易に撃破出来るのではないかと考えた日本人がいた。

山本五十六や井上成美などの海軍条約派と呼ばれる人達だが、
isoroku.jpg

海軍の役割は基本的には防御と考え、

井上成美の陸上基地から航空攻撃活用を唱えた井上よりも山本はさらに革命的な構想を考えた。


1939年(昭和 14年)8月連合艦隊司令長官に親補され、

山本は作戦の最高責任者となった。

山本は国力・軍事力に大きな隔たりのある日本が米国に勝利するには開戦劈頭に奇襲作戦を行って大打撃を与え、

主導権を握って短期決戦を行う以外ないと考えた。

山本は航空母艦によってハワイに停泊する米艦隊主力に航空攻撃を加え、

これを撃滅することを発案した。


これは昭和15 年3月頃から部内で検討され始め、

この計画なら対米戦に勝利が可能ではないかという認識のもと海軍は 9月から三国同盟賛成に転じ始めた。

1939年(昭和 14年)9 月19日、御前会議が開かれ、

三国同盟が審議される。

伏見宮軍令部長を始めとする海軍は松岡外相に対して対米関係を悪化させないよう伝え松岡案を了承、

こうして日独伊三国軍事同盟締結が決定された。


このドイツとの同盟は8月末のドイツの英本土上陸という見通しを基礎とする対英軍事同盟だったが、

松岡外相の修正によってアメリカをも仮想的とする対英米軍事同盟へとその性格を大きく変えることとなる。

そして松岡にはまだ遠大な構想を持っていた。

9月19 日の三国同盟審議で伏見宮海軍軍令部長に対ソ関係について質問され、

松岡はドイツに仲介を依頼しソ連と中立条約を締結し日独伊ソの「四国協商」を実現させるとその胸の内を語った。

ソ連と不可侵条約を締結しているドイツに仲介を依頼し、

対ソ融和を実現させる。事実上の「四国同盟」を実現させれば、

アメリカは極東と欧州の強大な軍事同盟に圧迫され、日華事変に対する非難を辞めざるを得なくなる。

それが松岡外交の描いたプランだった。


近衛首相も松岡の方針を支持しており

「三国同盟にはソ連が入らなければ無意味だと考えていた。・・・・もしそれが出来なければ三国同盟にはまったく価値がない」(注3)と語っていた。

対ソ同盟締結をもって初めて松岡構想は完成だと考えていたことがよくわかる。

そして日独伊三国同盟締結は山本を始めとする海軍の作戦立案部にも影響を与えた。

これからはさらに対米戦争の危険が増す、
これに勝利するには必殺の真珠湾作戦を決行する以外にないと考えるようになった。
hisshou.jpg

だが真珠湾作戦の決行は空母機動部隊による先制攻撃でイニシアチブをとること、

すなわち侵略戦争の開始に他ならない。

これは日本が調印した先制攻撃実行を侵略と規定するパリ不戦条約を自ら破る行為である。


真珠湾攻撃以外の選択肢では対米戦となったとき日本は滅亡する。

外交を行う際は真珠湾攻撃のプランに影響を及ぼさないものとすべきで

外交交渉で作戦が不可能になるなら作戦決行を優先するべきだと考えるようになった。

真珠湾で米艦隊を壊滅させ、同時に東南アジア一体を制圧し大量の天然資源を獲得する。

仮に侵略者となり世界を敵としたとしても天然資源を得て極東に立て篭もる日本に誰も手出しできず、

不敗のドイツはいずれ英本土を始め欧州の覇者となる。


アメリカの動員は一年半かかり、日独に手出しが出来ずいずれ和平に応じてくる。

山本ら条約派はこのように考えた。


真珠湾攻撃は当時世界で最も優れた海上作戦だったことは疑いの余地がない。


事実開戦劈頭には大勝利を収めた。だが海軍は真珠湾作戦に傾倒する余り、

外交交渉などの通常の選択肢を全て放棄してしまったのである。

≪次の記事 12.北部仏印進駐とゼーレヴェ作戦≫
posted by 右野翼 滅罪 at 23:00 | Comment(1) | 【日記】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

紀元節


image-00230211055230.png


今日は日本が出来た日、

全てが始まった日である。

仕事で式典などは参加できないが、

朝から日本人のルーツに想いを馳せつつ、

一日すごさう。
posted by 右野翼 滅罪 at 05:54 | Comment(0) | 【日記】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。