純粋と死


今日は深い話題であり、日本人の死に対する美、
と言うより、三島先生などの解釈を含めた、美と純粋と理想です。


ハッキリ言うと、純粋で理想的な思想を生きようとすると、おかしくなります、それはテロリストになったり、社会に有害になる場合が多いです。

それを避けて生きると、薄まります、それは明日を生きようとすれば、思想はさておき金を儲けないと、とか、こんな事してたら誰にも理解されないな、相手にされないな。
結婚出来ないな!!

と言う事になるわけです。

大人になるとはそう言う側面があります、純粋にやりたい事、カッコいい生き方、などはさて置き取り敢えずメシ食わないといけない。
政治活動なら、自分の思想はさて置き人を集めないといけない。

と言う事になります。

生きようと思うと、純粋は無くなるのです、何かの手法に自分を合わせざるを得ないわけですな。

自分はこうだけど、仕方ないからこうしよう、とならざるを得ない。

保守の方々は比較的、純粋さを求める人が多いと私は信じておるんですが、生きようと思えば無理です。

日本人があれだけ死を生きる事を強調したのは、明らかに自分の人生の役割に対する純粋を重んじたからであります。

次の日、それがもう来ないその一日に人生の輝きは駆け巡るのであります。

切腹したあと次の日がくるなら、出来るわけはないし、やる事も意味が無いわけです。

話は飛ぶかもしれませんが、魂は思想は、形がありません。

形がないわけでは無いですが、現すのが難しい、言葉に出来ないのと一緒で表せない。

しかし、思想は、魂は存在するのです、それをより完全な形でこの世に現そうとしたら、肉体は耐え切れません、肉体は火傷もするし、腹も減るし、性欲もあるし、走ったら息は切れるわけです。

そして肉体を保ちながら思想の純粋を表すのは無理です。

日本人は明らかにそれを知っていました。

特攻隊の人々の気高い死に様と言うモノはまさに、思想の、精神の純粋に、肉体が耐え切れず炸裂し、途方もない輝きを放った
世界の精神史上の金字塔と言えます。

大和魂と言うモノを、完全な形で表すには、死ぬしかありません。

語弊があるかな、
僕はそう考えています、としておこう。

後、純粋な精神は光るんです。

輝きを放ちます、しかし、それは刹那であり、純化しきるのは死ぬ瞬間のみなのです。

だから特攻隊の方々の肉体の炸裂と共に輝いた精神は、尊い。

あれは精神の金字塔であり、あれ以上肉体を持つ人間が精神の純化は出来ない、その極限だったと思います。

社会は純粋を嫌います、
何故ならそれは危険であり、暴発的であり、絶対的で、断固としていて、話し合いでどうにもならず、妥協を一切受け付けないからです。

精神の純粋の究極は死にあり!!

そして、その純化された精神は欠片となり、受け継ぐモノの心に飛んで行きます。

これを留魂と言うのです。

あの松蔭先生の留魂です。

みぎの

p・s

後、思想はそれのみで存在する。

それは妄想ではない。
現実として成り立たなかったら思想は意味がない!!
そんな事はあり得ない。
例えそんな思想を実現させる社会がなくても、体現する人間がいなくても、思想は妄想ではない。
これを説明するには私はプラトンのイデア論を使う。
イデア論とは、例えば、三角形は誰も描く事が出来ません、三角形っぽいモノは出来ますが、どんな精密な機械でも正確な三角形は作りようが無いのです。
だったらこの世には三角形と言うモノは存在しないし三角形という概念は意味が無いのか??
いやいや、そんな事は無くて、我々は三角形を見た事も触った事も無いが、三角形をちゃんと皆知っているし、意味がある事も知っている。
その認識している世界をイデアと呼んだわけですな、触れる世界とは別に認識?の世界があると。

精神も思想も同じ、それが実生活で役に立つとか、政治制度として到底成り立たない現実性の低いモノだから単なる妄想なのか??

私はきっぱり否!と答える。
気高き精神はあるのだ。


posted by 右野翼 滅罪 at 16:29 | Comment(1) | 【日記】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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