【真珠湾への道】六

第二章 対英戦計画


第一節 有末軍務課長の策動


トラウトマン工作以後、陸軍には 2つの変化があった。

一つは文民政府に任せていては日華事変(日中戦争)の解決は不可能であると思い始めた。

その結果、外務省を通さず私的外交を始めることとなる。

第二の動きは蒋介石が頼みとしている第三国を攻撃することで泥沼の戦いに突破口を見出そうとした。

陸軍はそれがイギリスだと考えた。そしてイギリスと敵対するドイツと協調する道を模索し始めることとなる。

1938年(昭和 13年)頃から「軍参謀長懇談席上に於ける次長講演要旨」を始め、

陸軍関係者の講演や部内の文書ではたびたび「時期国際転機」なる言葉が度々叫ばれるようになった。


これは今後、ドイツ陣営とイギリス陣営の対立が発端となり「世界動乱」が発生し、

極東ではその余波で日ソ戦争が開始されるというものである。

 これに対処するには対ソ防衛と日華事変早期解決を進め、

独伊との「防共協定強化」すなわち三国軍事同盟を実現させるべきだとしている。

これが実現すれば陸軍が日華事変停戦の最大の妨害者イギリスとソ連を欧州に牽制でき、

蒋介石に対する援助を停止できるという論旨である。


当時これを最も強く主張していたのは有末精三課長を始めとする陸軍軍務課の幕僚たちであった。
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有末精三軍務課長はイタリア駐在武官の際、ムッソリーニと親しくなり反英主義者となった人物である。

有末は英国は親中であり、英領ビルマから重慶の国民党政府に大量の軍事物資を提供していると考えていた。

そして重慶政府が降伏しないのはビルマの援蒋ルートのためであり、

ドイツと組み英国を打倒すれば蒋介石は和を請うと信じて疑わなかった。



だが英国は親中と言うのは根拠のない話で日華事変勃発時のブラッセル会議で、

英国は中国側の提訴を認めなかった。

しかも同会議ではアメリカにも中国側の非を説明し、

以後も日本に対する制裁等の処置は一切行っていない。

また当時の国民党軍は英国製兵器をほとんど装備しておらず、ドイツ製ソ連製が中心である。



有末は陸軍機密費を私的に流用して暴力団を雇いイギリス大使館に対するデモを実施。

また英国が国内で反英宣伝を行い、国内の反英気運を醸成しようと画策した。

この時期、アメリカの通商条約破棄通告とノモンハン事件があったため、

彼らは危機感を強め、さらにドイツとの協調へと傾斜してゆく。



だが翌年、事態はまったく予想だにしなかった方向へと転がっていった。

1939年(昭和 14年)8 月22日の独ソ不可侵条約が締結されたのである。


これまで徹底した反共を主張してきたドイツがあっさりと共産主義勢力の総本山たるソ連と手を結んだのである。

 一年近く日独伊同盟実現のため奔走してきた有末精三軍務課長らの衝撃は大きかった。


反共三ヶ国による軍事同盟でソ連を牽制するという彼らの主張も完全に瓦解する結果となったからである。

25日には閣議で三国同盟交渉が正式に打ち切られ、有末軍務課長ら反英派勢力は完全に支持を失った。


昭和天皇は畑俊六を陸相に任命するよう直接指示し、畑を通じて陸軍に対し政治介入を戒めた。


秋には大規模な人事異動が行われ、有末精三軍務課長、軍務局長、次官が交代となり軍務課の人事は一新された。

この余波は大きくしばらく国内全体で親独的な主張は影を潜めることとなる。

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posted by 右野翼 滅罪 at 23:00 | Comment(0) | 【日記】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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