【真珠湾への道】十二

第三節 北部仏印進駐とゼーレヴェ作戦
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1939年(昭和 14年)9 月7日にドイツ空軍はロンドン空襲を開始した。

日本でもこれに呼応して対英戦計画「時局処理要綱」が動き出した。

1940年 9月23 日には北部仏印に日本軍が上陸した。

松岡は三国同盟交渉と平行して事前に対英戦準備を進めており、

すでに進駐についてドイツ傀儡政権のビシー政府に承認を得ていた。

これによりドイツの英本土上陸が始まった場合北部仏印を基地として英領シンガポール攻撃に移れるようになった。

英本土上陸に呼応してシンガポールを攻略し、積年の日華事変を終結さようという陸軍の策がついに動き出した形となった。


イギリスはこれに対し抗議声明を行った。

現在日本の保守派は北部仏印進駐は援蒋ルート遮断のためであり、

逆にフランスとの合意に基づいた進駐を英国が抗議するのは理不尽だとしている。

だが「時局処理要綱」の成立過程をみればこの進駐は英領マレー、シンガポール攻撃を企図したものであることは明らかである。

本土がドイツの空襲に晒されている中で極東英領に日本軍が迫ってきたのだから平静でいられるはずはない。


アメリカも抗議し

9月4日ハル国務長官、

9月5 日ハリファクス外相と警告の声明が出され、

20日にはグルー大使が松岡外相に太平洋の現状維持を求める抗議文書を提出する。

23日、日本軍が北部仏印に進駐するとハル国務長官は即日、威圧によって現状を破壊したとして非難声明を出すに至る。

26日にはくず鉄・鉄鋼の対日輸出が禁止された。

このアメリカ制裁を不当だと解する論者がいるが北部仏印進駐は

英国崩壊に乗じてその領土の一部を侵犯しようという極めて道義を反した姿勢である。

シンガポール攻撃は当時の法理で持っても当然侵略と解される、アメリカの態度は当然である。


9月27 日には独伊との間に正式に日独伊三国同盟が成立する。

この時ヒトラーは日本にシンガポール攻撃を要請する。
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ヒトラーはイギリスの戦意を挫くのに必死だったが英本土上陸作戦は始まっておらずこの時日本は躊躇する。


一方英本土空襲はドイツ空軍の被害が目立ち始め、次第に効果が挙がらなくなっていた。

10月12 日に至り、ヒトラーは英本土上陸「ゼーレヴェ作戦」(あしか作戦)中止を決定する。

これと同時にドイツの英本土上陸をその骨子とする時局処理要綱も発動の条件を失った。

≪次の記事 13.松岡構想崩壊≫


posted by 右野翼 滅罪 at 23:00 | Comment(0) | 【日記】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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