【真珠湾への道】十五

第五章南部仏印進駐

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第一節 南進計画

田中新一ら陸軍の作戦部幕僚らは 40年から新南方作戦について起案を進めてきたが

南部仏印にも進駐すべきいう意見が台頭し始める。これを協力に推し進めたのは海軍だった。


そして陸海軍との協議の結果 41年(昭和16 年) 4月17 日には「対南方施策要綱」が策定された。


内容は以下の通りである。
 
1、外交手段によって仏印にシンガポール爆撃のための基地を設定する、軍事基地の設置は南進作戦を行うに当たって不可欠であり進駐の最大の目標である。

2、対日禁輸もしくは米英蘭支が対日包囲網を形成するなど帝国の安全を脅かす事態が発生した場合のみ南方作戦を発動する。

3、ドイツの英本土上陸のような好機が到来したとしても南方作戦は実施しない。



 しかし欧州情勢の変化、具体的にはドイツの英本土上陸のような事態が発生した場合には

これに便乗して南方作戦を実施すべきだという声が根強くあった。

陸軍では田中新一作戦部長や上居明夫作戦課長などがこれを主張したが、

海軍では特にそうした声が強かった。


そこでこの「対南方施策要綱」には「世界情勢著しく急変したる場合に於ける、対南方施策はその際更に別途決定せられるものとす」(注6)

という文言が盛り込まれ両論併記に近い形となった。


 この「対南方施策要綱」は陸海軍内の合意に留められ連絡会議まで持ち込まれることはなかった。

その最大の理由は海軍の反対であった。

この条文には武力不行使の原則があり海軍幕僚らはこの要綱が最高決定となれば

自分たちが自由な軍事行動が取れなくなると考えたためだ。

海軍は武力南進に極めて積極的だった。

  41年4月28日に「日米了解案」が到着した。

このとき日本の南方進出について「武力に訴えることなく平和的手段によって実行される。」

と規定していたが海軍中堅層は「武力に訴えることなく」という文言を削除させる。


 駐米大使野村吉三郎は武力に訴えないことが本了解案の基礎となる旨を東京に打電したが

対米国交調整と武力南進は両立させられるという楽観論が多数を占めた。

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posted by 右野翼 滅罪 at 23:00 | Comment(0) | 【日記】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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