【真珠湾への道】十九

第六章真珠湾


  第一節 帝国国策要領


昭和16 年8月9日、参謀本部は「帝国陸軍作戦要綱」を策定する。

1 在満州朝鮮16個師団を以って対ソ警戒を至厳ならしめる。

2 中国に対しては既定の作戦を続行する。

3 南方に対しては11月末を目標にして対英米戦準備を促進する。



これはまだ戦争を決意したわけではない。

英米と戦うためには、帝国海軍の同意が必要である。

海軍原案は8 月3日に海軍省や軍令部主要部局の課長クラスによって作られた組織

「海軍国防政策第一委員会」によって策定された。

海軍省軍務局の藤井茂中佐日誌では中心となったのは対米強行論者の石川信吾軍務局第二課長だとされる。

8月 16日海軍から陸軍に「帝国国策遂行方針」が到着。

その趣旨は、

「戦争を決意することなく戦争準備を進め、この間外交を行い、十月中旬に至るも外交打開の途なきに於いては実力を発動す」(注8)というものであった。

一定の期限を設けて戦備を完成しておき、期限が過ぎれば自動的に開戦するというものである。

陸軍の武藤章軍務局長、田中新一作戦部長と海軍の岡軍務局長、福留作戦部長がこれを協議に入った。



そして8月下旬には帝国国策遂行要領の陸海軍案が作成された。

このころ連合艦隊の大部分は訓練を終え母港にて臨戦態勢をとっていた。


1. 自存自衛のため対英米戦争を辞せざる決意のもとにおおむね十月下旬を目処に戦争準備を完成させる。

2. それに平行して米英に対して外交の手段を尽くして要求貫徹につとめる。

3. 外交交渉により十月上旬に至るも要求が通過しない場合直ちに開戦する。


外務省は対米交渉のための要求事項にのみ関り、陸海軍案と外務省案では中国からの撤兵問題についてのみ揉めた。

8月下旬に「水師準備第二着作業」が発令される。

そして「帝国国策要領」は対米新提案とともに 9月6 日の御前会議で審議された。


この時、昭和天皇から「外交が主、戦争従とせよ。」との御言葉があった。

御前会議では発言は許されておらずこれは異例の事だった。



東條陸相と陸軍の武藤章軍務局長はこれに衝撃を受け、

陸軍省に帰り和平を実現させるよう通達した。


9月 8日 杉山陸軍参謀総長が南方攻略作戦上奏。

「日米交渉が妥結すれば動員は中止するか。」という昭和天皇の質問に対し、

交渉が長引けばソ連侵攻の恐れがない冬季を選んで南方作戦を行う基本構造が崩れるため適切な時期に交渉に見切りをつけ、

最後の決心をする必要があることを上奏した。


海軍は8月の図上演習で、 11月16 日を開戦日としていた。

そしてこの開戦日を基準に 10月15 日には和戦を決定しなければならないと結論づけていた。

陸軍の南方作戦も同様で外交交渉の限度を 10月上旬、作戦準備の完成を 10月下旬、開戦の目処を11月初めとした。


9月24 日、海軍は真珠湾を5水域に分けて各水域ごとの艦船の状況を調査していた。

9月 25日、永野修身、杉山元の陸海軍総長が大本営政府連絡会議で、

「開戦決意の時期に関しては気象上の問題があるので、遅くとも 11月中旬までに始めねばならない。

従って 10月15 日までに日米交渉の成否を判定し、和戦いずれかに決めて欲しい。」と申し入れた。

これに近衛をはじめ閣僚らは動転した。作戦上の要求が政府の選択を拘束し始めていた。


しかも近衛・ルーズベルト会談を予定していたのが 10月2日にはを拒否する覚書が届くことになる。


10月中旬には水師準備作業が終了した。

このころになると閣僚レベルの会談がなんども開催されるようになった。

杉山・永野会談、東条・及川会談、東条・近衛会談が行われたがいずれも結論が出なかった。


近衛首相や9 月6日の「帝国国策要領」の変更を行い中国撤兵問題などの緩和を考える。

だが 10月16 日近衛内閣は判断に窮し、総辞職してしまう。


9月6 日の帝国国策要領の決定が事実上太平洋戦争決定となった。

≪次の記事 20.東條内閣≫


posted by 右野翼 滅罪 at 23:00 | Comment(0) | 【日記】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。