イスラエル国防軍戦記〜第二次中東戦争〜

イスラエル国防軍戦記〜第二次中東戦争〜

 
 本ブログにおいて私の書いた論文や動画が掲載されてまもなくまもなく一年経とうとしている。

そのなかで最も動画等で最も読者の方々の疑問を集めたのはやはり「侵略の定義」ではなかったかと思う。

 本ブログで何度も述べたように侵略とは第一撃を打った側である。

だが我が国においてはこの定義は正確に理解されておらず、国際法学者ですら侵略の定義は明白でないと公言する有様である。

 TVの討論番組や新聞等を見ていても歴史家・国際法学者や政治家の多くがそもそも侵略の概念を取り違えていることがわかる。

 有識者からして誤った情報を流布しているため一般国民はさらに理解に困難をきたしているのである。

 そこで20世紀の様々な戦史をモデルケースにどちらが侵略であるか判定し、侵略の定義についての理解を深めてゆきたいと思う。

 今回は現代史の一つの転換点となった第二次中東戦争を取り上げてみたい。


 1、エジプトのスエズ運河奪取


 中東戦争はイスラエル建国と同時に始まった。

イスラエル建国は国際社会の承認のもと合法的に建国されたことは前に述べた。(詳細は拙著「パレスチナの真実」を参照されたい)

 イスラエルの建国が宣言されたその日、エジプト・ヨルダン・イラク・レバノン・シリアの宣戦布告が行われ、アラブ側は三方からイスラエルに攻め込んだ。

 イスラエルは当事国軍すらもっておらずハガナーなどの民兵組織があるのみだった。アラブ側は勝利を確信し、戦争開始の遥か前から準備をしていたことは確実である。

 すなわち第一次中東戦争(イスラエル独立戦争)はアラブ諸国はパリ不戦条約に定める「侵略者」である。

 だがイスラエルは大損害を出しながらもアラブ連合軍を撃破することに成功する。

これによってこの戦争を主導したエジプトで王政への失望感が広がった。

 昭和27年(1952年)7月、エジプト軍将校であったナセルが自由将校団を率いてクーデターを起こし全権を掌握。

ナセルは汎アラブ主義に基礎をおく国家社会主義者であり王政を廃止、共和制への以降を宣言した。
 

ナセルはイスラエルを不倶戴天の敵とみなしエジプト軍の近代化を進めたがアメリカから武器供与を断られたため、ソ連に接近した。これは西側諸国、とりわけ英仏は警戒感を強めた。

 さらに決定打となったのスエズ運河国有化である。スエズ運河はフランスおよびエジプト政府による資金援助で1869年に開通した。

しかし、この建設費負担の為にエジプトは財政破綻し、エジプト政府保有株はイギリスに譲渡された。エジプトはイギリスの財政管理下におかれ、後に保護国となったのである。

 昭和31年(1956年)エジプトは突如、英仏両国が大株主を務めるスエズ運河株式会社の接収と全資産凍結を発表した、国有化いう名の資産強奪であった。

産油国から西欧への石油タンカーの七割通過するスエズ運河を奪われたことに英仏は激怒した。

 
2、侵攻計画


 英仏は軍事力でのスエズ運河奪回を画策する。しかし、これはパリ不戦条約の禁じた第一撃による侵略に該当することは確実である。

 ここで英首相イーデンはエジプトと敵対していたイスラエルに目をつけた。

イスラエルはインド洋への出口であるチラン海峡をエジプト海軍に封鎖されており侵攻の機会を狙っていた。
 
ここに侵略の外観を与えずスエズ運河を奪回する計画が練られた。
 
概要は以下である。
 
 1、イスラエルがシナイ半島へと侵攻。
 2、英仏が両者に即時停戦を要求し、停戦ラインをスエズ運河両岸16キロとする。
 3、兵力引き離しの名目で英仏連合軍がスエズ運河に駐留する。

 かくして英仏軍はマルタ・キプロス・アルジェリアに集結を開始、

イスラエル国防軍(IDF)にはフランスからAMX−13軽戦車250両が供与され、IDFに初の本格的な機甲部隊が誕生したのである。

イスラエルはシナイ半島を確保し、英仏は停戦名目でスエズを事実上奪回できるはずであった。

3、電撃作戦とアイゼンハワーの介入


 昭和31年(1956年)10月29日、イスラエル国防軍は「シナイ作戦」を発動、第202空挺旅団がエジプト軍の背後ミトラ峠に舞い降りた。

この部隊の指揮を執るのは後にイスラエル首相となるアリエル・シャロンであった。

同時に第一次中東戦争の停戦ラインをIDF機甲部隊が突破した。

 エジプト軍はソ連製T-34やスターリン戦車を供与されていたもののドクトリンは第二次大戦中のままでとどまっていたため、IDFは次々にエジプト軍を撃破、シナイ半島全域を占領する勢いだった。
 
シナリオ通り、英仏は両軍に停戦を求め、スエズ駐留を宣言した。ここで英仏の狙いを悟ったナセルはスエズ運河からの撤兵を拒否する。

 マルタ・キプロスさらに地中海上の空母より英仏の空爆が開始され、エジプト空軍基地が次々と破壊された。

 ところがここで予想外の事態が起きた、アメリカのアイゼンハワー大統領が英仏を侵略者として厳しく非難したのである。

 英仏・イスラエルはソ連の反対は予想していたがアメリカは当然支持すると踏んでいた。

自由主義の盟主たるアメリカはソ連に支援されたナセルのスエズ奪取を当然警戒するであろう、さらに11月には大統領選挙である、ユダヤ票を失わないように努めるだろうと考えていただけに衝撃は計り知れなかった。

 アイゼンハワーの怒りの理由はハンガリー情勢であった。

シナイ半島侵攻直前の2月頃からソ連の衛星国ハンガリーではソ連の頚木を逃れようという動きが広がり、各地で自由を求めるデモが頻発していた。

 ソ連は直ちに戦車部隊の投入、自由を求める市民はなぎ倒され数千人の死者と20万に及ぶ難民を出していた、いわゆるハンガリー侵攻である。

 アイゼンハワーが激しくクレムリンの侵略を非難し世界の関心を集めようとしている矢先の英仏の侵攻である。

結果として世界の非難と関心はスエズ運河に向けられた、これにアイゼンハワーは激怒したのである。

「東側の侵略を非難している矢先に自由主義諸国が侵略をやらかすとは何事か」というわけである。

 英仏の空挺部隊がポートサイドに降下、これを占領したが国際世論の反対を受け、もはや戦争を続けるどころではなくなっていた。

 侵攻参加国は国連の停戦決議を受諾し、国連の第一次国連緊急軍(UNEF)と入れ替わりに撤兵した。
 この戦争は大きな転換点であった。

イスラエルはエジプト軍に戦術的には大勝し捕獲兵器を多数得るというメリットはあったが国際的には孤立した。

 イギリス・フランスにとって侵攻失敗によって国際的威信は失墜した。

何より超大国アメリカが反対すれば無力であることを露呈した。

かつての大英帝国はもはや超大国ではなく普通の大国となっていたのである。


 4、第二次中東戦争評

 さて前後の経緯を見ればこの戦争の侵略者は英仏とイスラエルであることは明らかである。

第一次中東戦争がエジプトの侵略であるからといって本戦役もエジプトの侵略とはならない。

戦争の判定は個々の戦争ごとに行うからである。日本の左翼はこの定義を理解せず、

日中十五年戦争などというが愚かなことである。

そうであれば停戦条約や講和条約は意味をなさなくなる。


 ではスエズ運河国有化を挑発行為とはみなせないのだろうか。

日本の中東戦争を扱った書籍の大半はこれをナセルの義挙であるかのように説くが実際は英仏の資産の強奪以外の何者でもない。

ナセルの行動には社会主義思想が根底にあり国有化と称する資産強奪を意に介さない、だがこれを機に外国企業の撤退が始まり、その後のエジプト経済は混迷した事実も記憶されるべきだろう。

 英仏に理が無かったわけでないがこれを理由とした武力行使はやはり許されない。

 このときに英仏の民間人が生命を脅かされたり、殺傷されたりすれば武力攻撃は当然であるが、アイゼンハワーの批判は正しくやはり英仏の侵略と見なさざるを得ない。

 そもそも経済的事案で戦争に訴える時代は終わりを告げていたのである。

 安全保障論議を行うとき保守層や職業軍人から「やられる前にやれ」という主張が度々なされる。だがこの戦争の戦訓として先制攻撃に訴えるデメリットを考えねばならない。

 イスラエルは第一次中東戦争では国際社会から支持されたにも関わらず、この戦争で侵略者とみなられ国際的に孤立、西側からの武器輸入もままならなくなった。

 同じく2・28事件で孤立していた台湾、アパルトヘイトで経済制裁を受けていた南アなどと関係を深め、自由主義諸国の中ではやや浮いた存在となる。 

また前述したように英仏の国際的威信は失墜した。

 現在、イスラエルは第一次、第四次、レバノン・ガザ侵攻などで国際法を遵守しているにも関わらず侵略者と不当に非難されるが、これは第二次・第三次でパリ不戦条約違反を行ったためにイスラエルがアラブを侵略し続けているかのようなイメージがついてまわっているのである。

 短期的な国益のため重大な国際法違反を犯せば後々まで国家の足枷となることを忘れてはならないだろう。

主要参考文献

中東戦争全史 山崎 雅弘 (学研M文庫)


posted by 右野翼 滅罪 at 21:40 | Comment(0) | 【日記】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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