平和主義者への警告〜ルドルフ・ヘス、謎の飛行から読み解く戦時外交の要諦〜

1、『狂気の来訪者』

 1941年5月10日、ドイツから一機のメッサーシュミットBf110がイギリスへと飛び立った。
 すでに第二次大戦が開始され、ドイツ第三帝国と大英帝国の激烈な空中戦、世に言うバトルオブブリテンの戦端が開かれていた。
 連日ルフトヴァッフェ(ドイツ空軍)がロンドンを空襲し、それを迎え撃つべくRAF(イギリス王立空軍)が出撃していた最中である、当然このメッサーシュミットもRAFに捕捉された。
 だがメッサーシュミットは防空網をくぐり抜け、戦闘機の追撃を振り切り無事スコットランドへと到着、搭乗員はパラシュートで地上に舞い降りた。
 直ちに民間防衛隊員がパイロットを捉えたが、驚愕の事実が判明した。
 その男はナチス党副総統ルドルフ・ヘスでありイギリスとの和平のためハミルトン公爵への面会を希望しているというのである。


2、『ヘスの軌跡』

 和平を求めるとはいえ、敵地に要人が単身乗り込むというのは戦国時代ならいざしらず近代では考えられない。
 なぜなら詳細は後述するが、近代では単身敵地に乗り込んで腹を割って話し合うこと自体無意味である。
 そもそも近代戦となれば敵地で動くもの全てが目標であり猛烈な砲火をかい潜らなければならない。 ヘスの行動は外交的には常軌を逸したものだが少なくともレーダーと要撃機で守られた防空網すり抜けることには成功した。
 ヘスは第三帝国帝国の要人であるだけではなく歴戦の勇士としての顔を持っていた。
 ヘスは貿易商の息子として生をうけた。剛腕かつ厳格な父のもとで育ったヘスは後継者となるべく教育された、ヘスは自分に商才がないことを早くから自覚していたがそれを言い出せない気弱な青年だった。
 だが第一次大戦が彼の運命を変える。大戦が勃発するや否や、ヘスは初めて父に背きバイエルン王国軍第一歩兵連隊に入隊した。内気な青年はたちまち鋼鉄の兵士としての才覚を表す。

 ヘスは西部戦線の第一次イープル戦参加、ついでソンムに従軍。1915年4月に兵長に昇進、二級鉄十字章を授与された。1916年2月から開始されたヴェルダン戦に参加。この戦いは双方70万人が死傷する激戦であった。ヘスも榴弾の破片で両足と背に重傷を負うこととなる。

 だがヘスは戦意は衰えなかった。退院後の小隊長となりルーマニア戦線に派遣された。そこで肺に銃弾を受け重傷を負い、ライヒホルツグリューンで長期入院を余儀なくされた。
 なおもヘスは退院後、今度は航空兵として戦闘機の訓練に励んでいたが大空を駆ける前に敗戦となった。
 
 
 戦後、ヘスは初期のナチ党員としても活躍し社民党の集会に民間機で低空飛行で飛び去るなど激烈な活動をやり、ヒトラーとも刎頸の友となった。
 その後はヒトラーの個人秘書として辣腕を振るい、実質党のナンバー2であった。だが政権獲得後、次第にヘスにも凋落が見え始めた。
 
 大統領と首相を兼ねた総統(フューラー)に就任したヒトラーは独裁体制を開始し、もはやナチ党の党員たちはあまり重要な存在ではなくなった。

 必要とされたのはヒトラーを守るSS(親衛隊)やボルマンやシュペーアのような行政のスペシャリストであった。
 
 ヘスはこれまでの犬馬の労からナチ党副総統の地位を与えられたが、単なる名誉職に過ぎず突撃隊粛清いわゆる『長いナイフの夜』の決行は直前まで知らされず、ポーランド侵攻の際のヒトラーの演説で後継者をゲーリングだと明言されてしまう。
 
 ヘスはもう一度ヒトラー信頼を勝ち取り、自身の復権を図るためイギリス飛行に及んだのである。
 ヘスが単なる閣僚であれば実行に及んでもドーバー海峡の藻屑と消えたであろうが、彼の歴戦の兵士としての経験がそれを可能にしたのである。


3、『戦争はトップ会談では終わらない』


 ヘスは勇敢な兵士だったが、外交について根本的理解が欠けていた。
 チャーチルは報告を受けると当初こそ驚いたものの
 『そいつが本者だろうが偽者だろうが私には関係ない。私はこれから映画を見に行くんだ。』
 と言い放った。チャーチルはこのような直談判が無意味であることを見抜いていた。ヘスは逮捕され終戦までロンドン塔に幽閉されることとなる。

 一方、ヒトラーはヘスの行動に激怒した。またイタリアや日本といった同盟国に秘密外交を行っているように誤解されることを恐れ直ちに『ヘスは精神に異常をきたした』と発表した、これでヘスの命運は尽きた。


 外交官や軍人、諜報員あるいは民間人が単身敵地に乗り込み相手を説伏せ和平を実現させる、これは架空戦記小説やアクション映画でお馴染みのパターンである。
 だがこのようなことはストーリーで勝負しなければならないクリエイティブな世界での話で現実には有り得ない。
 なぜなら停戦とは膨大な事務処理と事前交渉が必要となるからだ。停戦ラインの設定や双方の捕虜の帰還問題、撤兵の時期、戦後賠償など、事前に下僚が第三国を経由して下積みの交渉を重ねなければならない。そのために外務省が存在しているのである。

 大前提となる停戦ラインの設定からして膨大な作業であり、双方の射程圏など軍事能力の問題も絡むため当然野戦司令官は中心的役割を担うこととなる。
 
 ヘス飛行の最大の問題点は全権委任をされていないことである。全権委任をされていなければ決定権がなく只の人である。

 そのような相手といくら話しても無意味であるとチャーチルは理解していた。仮にヒトラーが飛行したとしても結果は同じであっただろう。
 事前の交渉なしにトップが乗り込むというのは理由も告げず書類にサインを貰おうとするのに等しい。

 現在、日本のリベラル知識人はこれから世界はグローバル化に向かい、国民国家は形骸化し市民による交流が平和をもたらすと主張する。 だが民間交流などでは有事はいざしらず軍事的緊張の緩和にすら繋がらない、この主張はヘスの飛行以下の発想と言わざるを得ない。


4、『外交と軍事は車の両輪である』

 
 だが軍人、外交官、市民運動家は自身の専門分野からしか外交を理解することができず、トップ会談で解決を図ろうとしがちである。また戦局と関係なく外交交渉が可能と考えるものも多い。

 ヒトラーは我が闘争の中でイギリスは最良の同盟国であると記しており、バトルオブブリテンの最中もイギリスとの和平を模索していた。ヘスはヒトラーの胸中を理解しており、この単独飛行という挙に出たのである。
 
 ヒトラー、ヘスは共に優秀な兵士であり、この事件を理解するにはこうした軍人や兵士特有の心理も見逃せない。ヒトラーもヘスも戦局と関係なく外交交渉ができると考えたのだ。

 だがイギリスの立場になればこれはすぐに誤りだとわかる。イギリスは第二次大戦勃発後フランスに派兵、だがヒトラーの西方電撃戦、作戦名『黄色の件』でドイツ機甲師団に撃破されダンケルクで主要な装備を失い海上脱出の憂き目となった。
 バトルオブブリテンでは連日押し寄せる千機以上のルフトヴァッフェとの死闘を繰り広げた。真珠湾攻撃まで同盟国は存在せず大英帝国はまさに存亡の危機にあったのだ。

 イギリス国民はこの状況での和平はイギリスにとり、ドイツ第三帝国への隷属だと見做したのは当然である。
 イギリス国民はチャーチルの指導力と王立空軍の善戦に最後の希望を託して戦っていたのだ。

 この時点で外交官の舌先三寸で和平が成立するわけがない、多くのイギリス兵がフランスで倒れ無差別爆撃でロンドンが破壊されている真っ最中なのだ。
 イギリスの反戦団体は全て解散し、非暴力主義の宗教団体を含むあらゆる国民が戦闘や後方支援に協力していた。
 
 ロシア空軍が小松基地や百里基地を空爆し東京上空で空中戦が繰り広げられ、日本国民が怒り狂っている最中にメドベージェフが飛来したとしても即刻逮捕されるだけである。

 イギリスとの停戦のためにはRAFの主要な基地を叩き、ドイツ兵がドーバー海峡を超え、イギリス陸軍を殲滅する他ない。チャーチルに『何をやっても勝てない』と認識させなければイギリス人は徹底抗戦を続け停戦は有り得ない。
 ロンドンが占領されるかベルリンが占領されるまで戦争は終わらないし事実そうなった。


5、『社会主義者の戦争観』


 またこの事件は社会主義者特有の発想から出たものとも評することができる。社会主義には独特の教条主義的発想がある。

 すなわち状況に応じて対策を考えるのではなく、ドクトリン(教義)から結論を導き出し、自分たちの都合のよいように動くと考えるのである。

 ヒトラー、ヘス、ヒムラーはいずれも大戦中、イギリスあるいはアメリカに和平交渉を行った。
 その内容は皆大筋は共通しておりソ連、ボルシェビキズムの脅威を訴え、共に戦おうというものだ。
 だがドイツ人が戦争を始めたことを考えれば独りよがりの終戦工作としか言いようがない。

 ベルリン陥落後、ヒトラーの後を継いだ2代総統カール・デーニッツは米軍にソ連軍の暴虐を訴え共にボルシェビキと戦おうと打診したが、アイゼンハワーの返答は『君たちはそれを1941年(バルバロッサ作戦発動の年)に考えるべきではなかったかね。』であった。

 ドイツに残された道は日本が特攻や硫黄島作戦で示したような耐え難い損害を与え、条件付き講和を勝ち取る以外ない。
 
 日本は大東亜戦争末期の激闘で当初の無条件降伏から固有の領土保全と国体の護持を勝ち取った。ポツダム宣言とは事実上の有条件降伏案であった。

 ただドイツの場合は東部戦線のクルスクにおける『ツィタデレ作戦』、西部戦線のアルデンヌにおける『ラインの守り作戦』といずれも最後の反撃に頓挫しており、もはや交渉したところで米ソ双方から無視されなすがままに蹂躙される他なかった。
 だがSS(親衛隊)長官ヒムラーはこれを理解せず最後まで米軍との交渉に希望を持ち、無駄だとわかると自殺した。

 社会主義者によるこうした、教条主義な停戦交渉は枚挙に暇がない。
 統制経済を主張し、軍務を忘れ社会主義に傾倒した昭和陸軍も同様であり特に支那事変では失敗を重ねた。

 支那事変は蒋介石の七十五万の軍による、上海陸戦隊本部への侵攻で開始された、支那事変とはまごうことなき中国の侵略戦争である。
 敵軍の侵攻となれば戦う以外道はない。だがこのとき事実上陸軍のトップであった石原莞爾参謀本部作戦部長は驚くべき行動に出た。

 なんと上海から逃げようと言い出し、蒋介石との南京でのトップ会談を主張したのだ。 海軍も『友軍を見捨てるのかと』激怒した。石原はナチス党と同じく独りよがりの和平交渉、『船津工作』を開始する。当然、蒋介石は取り合わずこれを聞き勝利を確信した。

 先帝陛下(昭和天皇)は本来この事態に対処すべき陸軍エリート参謀らのあまりの無能に呆れ、自ら判断を示さねばならぬと考え、上海での全面反攻を提案した。先帝陛下は敵の重点が上海であり帝国陸軍の勝利を確信していたのである。

 その読み通り国府軍は撃破され全面壊走に陥り停戦を求めてきた。だが停戦交渉の際、近衛が『蒋介石を相手にせず』と言い出したため、この歴史的勝利は水泡に帰した。

 蒋介石を相手にしなければ誰とも交渉できず戦争は終わらない。近衛もまた社会主義者でありかつ軍事知識が全くなかった。
 
 近衛はドイツの仲介を蹴り、次いでイギリスの仲介も拒否した。この時すでに石原は排斥され、多田駿夫が陸軍を主導していた、多田は軍事的リアリズムから蒋介石との交渉を涙ながらに訴える。
 だが海軍を筆頭に近衛内閣の面々は石原の上海撤退という妄言の怒りが収まらず今更陸軍が正論を言い出しても聞く耳を持たなかったのである。

 弱り果てた陸軍は陸軍による私的外交、『桐工作』に活路を求めた。またしても陸軍は外交の基本から逸脱した停戦交渉を開始したのである。
 だが船津工作の場合と異なり、近衛・広田と海軍の停戦拒否が陸軍を藁をも掴むような工作に走らせたのであり同情の余地はあるだろう。

 桐工作は支那事変中の幾多の停戦交渉の中では長期的に続けられたものであったが意外なことから頓挫する。
 驚くべきことに交渉の最中、国府側の宋子良がホテル代を無心して来たのだ。国府の代表とあろうものがホテル代に事欠く訳がないと思った陸軍は宋子良を偽者と判断し、交渉を打ち切った。

 だが宋は偽者ではなく本当にホテル代を払えなかった、国民党政府は日本の西原借款をはじめとする外国からの膨大な借款を戦前から踏み倒している、中華民国はとっくの昔に破産していたのである。

 私的外交の問題点は全権委任の確認ができず、双方の意志が明確に出来ないことである。
 戦争中、全権委任ない陸軍将校が出向き、交渉したとしても履行される保障はなくそもそも相手方はなぜ大使ではなく軍人だけが来るのか理解できない。

 仮に桐工作が軌道に乗ったとしても外務省と文民政府の協力なくして撤兵はままならず交渉決裂は当然の帰結であった。
 すでに大日本帝国に最高意志決定者はおらずめいめい勝手に動き回り最悪の結論を迎えたのである。

 ヘスはロンドン塔に幽閉されたとき取調官にヒトラーは和平を望んでいると必死に訴えたが取調官の答えは『ヒトラーが本当に和平を望んでいるとして我々はどうやって確認すればいいのですか。』であった。
このやりとりは私的外交の限界をよく表している。

 イラクのクウェート侵攻の際、社会党党首の土井たか子は単身イラクに飛び、フセインを説得すると主張した。これではヘスの狂気の飛行となんら変わらない。

 土井の誤りは二重にある。まずフセインはすでにクウェートに侵攻、占領しており開戦前ならいざしらず後戻りできない立場にあった。
 
 またフセインはアメリカはヴェトナムの後遺症から立ち直っておらず地上戦はできないと踏んでおり、中東最大のイラク軍の存在からクウェート併合が黙認されると確信していた。 フセインの意志を砕くにはイラク軍、特に陸軍の殲滅する他ない。

 最大の誤りはこの行動が平和をもたらすどころか、独裁国家に人質を提供する結果となることである。
 
 フセインは自身が招いた日本人を含む民間人を人間の盾にすると宣言してた。具体的には空爆の目標となりそうな施設に民間人を縛り付けることを指した。

 この人間の盾は英米との水面下の交渉で順次解放されていった。終結しつつある米軍を中核とする多国籍軍にフセインは仮に人間の盾をやれば自分もタダではすまないと理解した。

 このような人道に反した国家とは軍事力なしでは交渉できない。土井のイラク訪問は多国籍軍のデザート・ストーム(砂漠の嵐)作戦発動が秒読みとなり実行されなかったが、もし実行されれば軟禁されイラクのスポークスマンとしてプロパガンダに利用されたか人間の盾にされたかいずれかであろう。
 
 いずれにせよ日本の野党の党首がかような真似をすれば、多国籍軍に重大な影響を与えたことは確実である。

 ただ土井をはじめとする日本の社会主義者や反米右翼は終始、侵略されたクウェートよりイラクを擁護し続けており人質志願からの行動だったのかもしれない。
 現在にいたるも社民党は自衛の戦争すら否定し北朝鮮のテポドン迎撃すら反対した。

 社会主義とは常にドクトリンに従ってイニシアチブを握って行動すれば相手は意のままに動くという思想である。

 相手がイニシアチブを握る戦争、すなわち侵略戦争を受けるケースについては理解できず、戦争と言えばこちらが侵略する状況しか想定できないのである。
 社民党の自衛隊廃止論の根幹をなす理由の一つがこの社会主義を基礎としたイニシアチブ重視である。

 戦争といえば日本が他国を先制攻撃することであり日本が軍事力を全廃し、一方的にイニシアチブをとり平和を訴えるという独りよがりの発想である。

 関東軍を暴走させ満州事変を引き起こした石原莞爾は自分が攻められた戦争、支那事変についてはあの時撤退していれば良かったと終生主張した。
 石原は当事者でありながら上海で何があったか死ぬまで理解できなかった。

 土井のクウェート侵攻擁護と石原莞爾の満州事変、福島瑞穂のテポドン迎撃反対と石原の上海総撤退の主張は同一であり、根底にあるのは社会主義である。
 
 ヘスの飛行は現在でも謎とされている。ヘスはロンドン塔幽閉時からますます精神的に不安定となった。戦後出廷したニュルンベルク裁判でヘスはたびたび奇行を繰り返し、裁判中、連合国・ドイツ人被告双方から度々失笑が漏れた。
 
 この印象があまりに強いためか単にヘスは気が触れたと見做し、ナチ党の狂気の典型的な例と捉えるものも多い。
 
 だが精神的に不安定になりつつあったかもののヘスは社会主義的信念から確信をもって単独飛行を決断した。
 
 中国が引き起こした尖閣諸島漁船衝突事件など他国から脅威を受ける事案がある度、有識者と称する人物がメディアに登場し、『トップ会談』『独りよがりの和平交渉』を主張する。

 非常時の際の識者やマスディアを見るにつけ、その多くがヘスと同様の誤りを犯しているとしか思えない。


posted by 右野翼 滅罪 at 15:01 | Comment(3) | 【日記】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
鳩山由紀夫はヘスに似ているね。自分が話し合えば、中国とわかりあえるなんて言ってたね。恍惚の全能感がヘスと由起夫の持ち味だね。尖閣を係争地と言ったりして、アタマがおかしいのか?「米帝国は日中友好の敵」と言い放った浅沼は暗殺されたが、由起夫は音羽御殿に幽閉してほしい。鳩山家の支払いで。月千万の小遣いやればいい。「ユキは妄言百姓よ」って唄を作りたくなったな!
Posted by 国民自由主義者 at 2013年02月04日 23:55
なかなか興味深い考察です。
Posted by at 2014年10月28日 15:25
ありがとうございます!!
Posted by 滅罪 at 2014年11月02日 00:43
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