滅罪辻説法 「自分も他人も同じ」

 自分が強いからといって他人に冷たい言葉を浴びせ、蹴飛ばせばどうなるだろうか。その時は相手は言い返せないかもしれない。だが深い恨みの念は残り続ける。
 人の精神力を侮ってはいけない。その相手の憎しみの念で自分の生活に支障をきたしてくる。
 「あいつは恐ろしいやつだ。」という悪評もすぐにたつ。自分が強い間は表面的にはみなおべっかを使うであろう。しかし自分に心を開いて接してくれる人は居なくなる、孤独感がこみ上げさらに憂さ晴らしをするために悪行を繰り返すという悪循環に陥る。
 どんな人にも寿命がある、また落ち目になる時もある。そうして自分が弱った時、恐ろしい仕返しが襲いかかってくる。

 相手に恨まれれば恐ろしいのはわかった。では相手にこちらの素性がわからないような嫌がらせ、例えば最近ではインターネットでの誹謗中傷ならば、こちらは安全なのだろうか。

 だが前回の「悪口のこと」http://migino38.seesaa.net/article/248287500.html
でもお話させて頂いたが、相手を傷つければ何より自分の心が傷つくのである。たとえインターネットで匿名で暴言を吐き、世間様に知られなかったとしても自分は知っている。

 誰しも良心がある。どのような凶悪な人間でもふと善良な一面を覗かせるのはそのためである。ようは良心が曇りが多いか少ないかの違いがあるだけで、良心のない人間などいない。

 人に知られずとも悪行をなせば自分の良心が傷つき、心のどこかで「なんというひどいことをしたのか」と後悔する。それが日々の生活の障害となって現れる。

 そして最も恐ろしきことは神仏がそれを見ていることである。警察の目は誤魔化せても神仏の目は誤魔化せない、悪行をなしたものは必ず報いを受けるのである。

目の前の人を苦しめることは、自分を苦しめるのと同じことだ。人を殴るのは自分を殴っているのと同じである。
 
 ならば逆に多くの人を喜ばせればどうだろうか。自分がして欲しいことをどんな人にも分け隔てなく人にしてあげるならばいかなる結果が生まれるのか。
 
 答えは言うまでもない。自分が忘れていても、施した人はその恩を忘れず自分の幸せを願ってくれる。知人や友人や家族は、今度は自分がして欲しいことを頼まれないでもしてくれるだろう。 
 「あの人は素晴らしい人だと」評判になる。断ってもこちらに善行を施してくれるようになる。

 自分の良心も奮い立つ、もっともっと多くの人を喜ばせようと意気込んで善行をなす、幸福の連鎖である。

 目の前の人を喜ばせることは自分を喜ばせるのとおなじことだ
 
 こう考えると、自分も他人もない。周囲に可愛がってもらうのが先ではない、自分が周囲を可愛がれば周囲は自分を可愛がってくれるのである。

                                  滅罪

 


posted by 右野翼 滅罪 at 06:00 | Comment(1) | 【日記】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
人は神の分け御霊でありましょうから、結局みな同じ存在なのかもしれませんな。

みんな良心がある証拠に、どんな悪人でも正当化をしようとする。

良心がないなら言い訳も正当化もなんの意味もなく、関係ねえですむはずなのに中共でさえ正当化する。

中国人にまで良心があるかは僕はまだ勉強不足で信じられませんが。

ツイッターでも、つぶやきましたが、ほんの一言が悪の連鎖を生むか善の連鎖を生むかの分かれ目なんだと思います。

皆人間ですから……
Posted by みぎの at 2012年01月27日 03:02
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